経済学の未来
大上段のタイトルだがただの日記である.今日の研究セミナー後の意見交換会で「経済学の未来とは」という話題が出た.これはセミナー報告者の N さんの 6 年ほど前の日経学会のチュートリアルセッションでの議論について,改めて今振り返るとだんだん腹落ちしてきたんだけど……という文脈の話のようだった.私はその講演の内容は知らないが,「経済学は機械学習の植民地になる」という発言が当時物議を醸したようだ.私の出身に近しい交通工学分野では,時期を同じくして分野自体が機械学習に背景を持つ人たちの「草刈場」となるのではないかという危機感を持つ人もいて,日経学会で当時そんな発言があったと聞いてもフーンまあそれはそうですねという感じはちょっとある.
話を戻して,超長期でデータがどんどん積み上がって,誰かの次の行動の選択はこれですということをほぼほぼ完全に予測できるようになったとする.実際,一部の国家では個別の国民の行動データが膨大に蓄積されているだろうし,行動や属性の推定など相当な精度で既に実行可能であろうと思われるし,その精度はおそらく上がっていくばかりだろう.そういう環境で経済学の未来はどうなるのか,既存のアプローチは陳腐化するのではないか,という話題だ.例えば経済学における理論モデル分析ではこれこれの仮定のもとではこんなことが起こりますという議論をするし,計量理論では例えば十分大きな標本が得られないときにより良い推定量をなんとかして作りたいという動機の研究がある.そうしたアプローチが意義を失うのではないかということだ.「いや効用関数の形なんか仮定しなくても次の選択はわかります.というかデータがあったら単調性の仮定とか検証可能ですよね,なんでやらないんですか?」「データはハチャメチャたくさんあるので一致性があれば十分です」 そうなった時代の経済学とは一体?
私個人としては,以下のような(よくある)立場である:どれだけ予測器の表現力が上がっても,「なぜそうなるのか」というメカニズムの理解には繋がらない.制度変更や新規税制のような大きな変化が起こったときに人がどう振る舞いどのような結果が生ずるのかという反実仮想実験の手続きを与える枠組みではない.そして,「次に我々は『どうしたい』のか」という規範的な議論には繋がらない.そうした枠組みを作るのは人間の手によるしかない.少なくとも当分のあいだは.
星新一のある種の作品群に見られるように全ての人が人工知能に指示されるまま無批判に動くことを受容しない限り,意思決定の納得感を創出する何らかの現象解釈体系・価値判断体系が必要だろう.人工知能が推奨する政策の正当性・透明性を保証し,合意形成に資するための枠組みは経済学に限らず却って重要になる可能性がある.より具体的な問題でも,新しい環境で古典的には重要視されてこなかった面が強調されることもある.例えばプライバシー保護とかバイアス検出というような方向性があるが,素人目にはその背景に古典的な統計理論よりも規範的な価値判断に近しい研究動機があるように思われる.
とはいえ,超・超・長期という話だったので,以上のような役割すら少しずつ推測機械に代替されてしまう状況かもしれない.そのような環境で,価値判断にまつわる方向を突き詰め続けて倫理学的・哲学的・宗教的・呪術的な部分だけが残ったとき,それを経済学と呼ぶのかどうかはよくわからない.そもそも,「納得感」への社会的な選好が今後どれだけ存続するのだろうかというのもよくわからない.あとで ChatGPT にでも訊いてみよう.